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この頃、休みが多いので、久しぶりに歴史学者井上清先生の「日本の歴史」(岩波新書)に目を通し、冒頭次の文に注目した。
1 原始から現代まで、社会と文明を断絶することなく発展させてきた日本の歴史は、世界史の中の一異彩である。(大きな日本の特徴の一つ)
2 紀元前の三世紀~二世紀、縄文時代は次の二点で、まさに日本歴史のはじまり(日本人種の原型の成立)といえる。
(1) 朝鮮から弥生式文化の人種も入ってはきたが、混血等により縄文時代人に吸収され、日本人種の原型が成立した。
(2) 日本語の核心は、縄文時代に成立した。その日本祖語を使って、縄文時代人は未開を切り抜けた。
日本人種の原型は、上記(1)と(2)により、「朝鮮および中国の先進文明を、赤ん坊が母の乳を求めるようにむさぼりつつ、五世紀にようやく、古代中国文化圏の東のはてで、日本は未開から文明の段階に到達したといわれている。」
原始の野蛮から、主として大唐国の模倣を経て、現代の文明国になった日本、この国に最も大きく影響を与えたのは、朝鮮と中国に他ならないが、何が影響したのかの見解は様々であり、この度、仏教や儒学以上に、「かな」表音文字の発明が、日本文化・文明に貢献したことの大きさにたどりつきて驚いている。これは、古代貴族の日本文化が、日本の文化全体の拡大・深化に大きく役立ったといえよう。
漢字の音や意味の活用は五世紀からであり、それが日本語の表現を発達させた。そんななかで「万葉集」が「万葉がな」で生まれ、これが日本語の「かな」の発明になった。この「かな」が、日本の文化・文明をひろげた功績は測り知れないものがあることを井上先生から教えていただいた。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
1 原始から現代まで、社会と文明を断絶することなく発展させてきた日本の歴史は、世界史の中の一異彩である。(大きな日本の特徴の一つ)
2 紀元前の三世紀~二世紀、縄文時代は次の二点で、まさに日本歴史のはじまり(日本人種の原型の成立)といえる。
(1) 朝鮮から弥生式文化の人種も入ってはきたが、混血等により縄文時代人に吸収され、日本人種の原型が成立した。
(2) 日本語の核心は、縄文時代に成立した。その日本祖語を使って、縄文時代人は未開を切り抜けた。
日本人種の原型は、上記(1)と(2)により、「朝鮮および中国の先進文明を、赤ん坊が母の乳を求めるようにむさぼりつつ、五世紀にようやく、古代中国文化圏の東のはてで、日本は未開から文明の段階に到達したといわれている。」
原始の野蛮から、主として大唐国の模倣を経て、現代の文明国になった日本、この国に最も大きく影響を与えたのは、朝鮮と中国に他ならないが、何が影響したのかの見解は様々であり、この度、仏教や儒学以上に、「かな」表音文字の発明が、日本文化・文明に貢献したことの大きさにたどりつきて驚いている。これは、古代貴族の日本文化が、日本の文化全体の拡大・深化に大きく役立ったといえよう。
漢字の音や意味の活用は五世紀からであり、それが日本語の表現を発達させた。そんななかで「万葉集」が「万葉がな」で生まれ、これが日本語の「かな」の発明になった。この「かな」が、日本の文化・文明をひろげた功績は測り知れないものがあることを井上先生から教えていただいた。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
秋田県のふるさと教育は、しっかりとした深い郷土を愛する心を育み続けて止まない貴重な存在といえようが、それは育ち(友情等)を中心に、教え・学びへと発展してきているのではないか。ふるさと教育において、苦難を乗り越えて偉業を成し遂げた先人の生き方を学びながら、共通の心の支えを獲得し、さらに得られる地域の連帯感により、すばらしい「ふるさと」が、新しい文化・文明の地に発展することになっていくであろう。
子どもたちは、先輩や同僚たちとみんないっしょに「近くのふるさと」を学び、そして友といっしょにふるさとに働きかける。家族を右足・近隣・友人たちを左足、そして自然を全身にかけ、苦難をものともせず、生き抜いていく。そこには深い愛を中心に、強い夢と希望、自信と誇りを持って、生きる経験からのバネが躍動する。そして、ふるさとは、この強いバネでつながる一体感に満ちた自然・人間・社会となっていく。
秋田のふるさと教育の歴史は容易に作られたものでないことは、私の郷里新潟の教育の足跡と比べてもよくわかる。喜びよりも悲しみの方がずっと多かったにちがいない。秋田県と新潟県、私はこの苦労の両翼の歩みを決して忘れてはなるまいと思う。
今、超グローバル時代の到来、海外旅行の機会も多いが、多くの人々が日本国内のことを外人に聞かれて答えられないという。今の社会化教育をふるさと教育に接近させる必要性があるのではないか。
「ふるさと秋田の学び」という冊子に、こんな一文がある。
―農作業のお手伝いのため、朝七時からの早朝始業―
「それでも学校は楽しい場所であった。子守から学校へ、大勢の友だちがおり、厳しく優しい先生が待っていてくれた。」
「厳しい生活に押しつぶされそうな子どもたちを何とかしたいという先生方の情熱が、みんなを新しい早朝教育に向かわせた。」
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
子どもたちは、先輩や同僚たちとみんないっしょに「近くのふるさと」を学び、そして友といっしょにふるさとに働きかける。家族を右足・近隣・友人たちを左足、そして自然を全身にかけ、苦難をものともせず、生き抜いていく。そこには深い愛を中心に、強い夢と希望、自信と誇りを持って、生きる経験からのバネが躍動する。そして、ふるさとは、この強いバネでつながる一体感に満ちた自然・人間・社会となっていく。
秋田のふるさと教育の歴史は容易に作られたものでないことは、私の郷里新潟の教育の足跡と比べてもよくわかる。喜びよりも悲しみの方がずっと多かったにちがいない。秋田県と新潟県、私はこの苦労の両翼の歩みを決して忘れてはなるまいと思う。
今、超グローバル時代の到来、海外旅行の機会も多いが、多くの人々が日本国内のことを外人に聞かれて答えられないという。今の社会化教育をふるさと教育に接近させる必要性があるのではないか。
「ふるさと秋田の学び」という冊子に、こんな一文がある。
―農作業のお手伝いのため、朝七時からの早朝始業―
「それでも学校は楽しい場所であった。子守から学校へ、大勢の友だちがおり、厳しく優しい先生が待っていてくれた。」
「厳しい生活に押しつぶされそうな子どもたちを何とかしたいという先生方の情熱が、みんなを新しい早朝教育に向かわせた。」
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
日本の子どもたちの目の輝きが、他国の子どもに比べて弱い、その原因の一つは「これではないか」と感じることに今出会っている。それは日本の子どもたちの学びが、日常の生活から離れ、大人の能力の方に引っ張られすぎているのではないか。子どもたちの生活や教育が、大人たちの生活の基準や教育行政の仕組みに押されて展開されがちのように思う。
「子どもたちの心を、ふるさとに返したい。」それは秋田県由利本荘市の佐々田教育長さんが書かれた「成長・成熟の動く子どもたちの心」を「家族や近隣の人たちに囲まれた温かい絆(つながり)」の中に置き、そこに溶け込ませてやればという願いそのものである。
これに気づかせてくれたのは、秋田の友人酒出弘二先生からの次の2資料である。
①「ふるさと教育」推進(秋田さまがけ)
由利本荘市教育委員会 佐々田享三教育長
②「ふるさと秋田の学び―出会い・発見・感動―」
秋田県教育委員会 平成8年503頁、同教育長寄贈
ふるさと教育・郷土教育については、会津の子どもたちの「遊びの什(じゅう)(集会)が有名であり、特に「ならぬことはならぬ」の定めは調べもしたが、秋田のふるさと教育が、こんなに実践と伝統に満ち、成果の大きいものであったことを、はじめて知った。主な足跡を拾ってみよう。
・大正四年(1915)農村附属小学校誕生から郷土教育へ(郷土調べ学習、北方教育、標準語教育等)
・昭和14年(1939)秋田県師範・秋田県女子師範「綜合郷土研究」発行、その前に昭和十一年度から文部省指定(2年)。
(国は四十六都道府県にも研究を指示したが、研究物が発刊できたのは、秋田・山梨・茨城・香川の四県のみ)
・昭和二十五年(1950)社会科研究資料わが秋田の発行。
昭和六十一年(1986)心の教育県民運動―心の交流宿泊研修等―
・平成四年(1992)県国語研「文集秋田」の刊行(※)を経て、ふるさと一心の教育は進展し、平成8年2月「ふるさと秋田の学び―出会い・発見・感動―」が発行。
※平成6年(1994)ふるさとの歌(17曲)発行。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
「子どもたちの心を、ふるさとに返したい。」それは秋田県由利本荘市の佐々田教育長さんが書かれた「成長・成熟の動く子どもたちの心」を「家族や近隣の人たちに囲まれた温かい絆(つながり)」の中に置き、そこに溶け込ませてやればという願いそのものである。
これに気づかせてくれたのは、秋田の友人酒出弘二先生からの次の2資料である。
①「ふるさと教育」推進(秋田さまがけ)
由利本荘市教育委員会 佐々田享三教育長
②「ふるさと秋田の学び―出会い・発見・感動―」
秋田県教育委員会 平成8年503頁、同教育長寄贈
ふるさと教育・郷土教育については、会津の子どもたちの「遊びの什(じゅう)(集会)が有名であり、特に「ならぬことはならぬ」の定めは調べもしたが、秋田のふるさと教育が、こんなに実践と伝統に満ち、成果の大きいものであったことを、はじめて知った。主な足跡を拾ってみよう。
・大正四年(1915)農村附属小学校誕生から郷土教育へ(郷土調べ学習、北方教育、標準語教育等)
・昭和14年(1939)秋田県師範・秋田県女子師範「綜合郷土研究」発行、その前に昭和十一年度から文部省指定(2年)。
(国は四十六都道府県にも研究を指示したが、研究物が発刊できたのは、秋田・山梨・茨城・香川の四県のみ)
・昭和二十五年(1950)社会科研究資料わが秋田の発行。
昭和六十一年(1986)心の教育県民運動―心の交流宿泊研修等―
・平成四年(1992)県国語研「文集秋田」の刊行(※)を経て、ふるさと一心の教育は進展し、平成8年2月「ふるさと秋田の学び―出会い・発見・感動―」が発行。
※平成6年(1994)ふるさとの歌(17曲)発行。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
33歳、女子バレーボール日本代表、元主将、今重鎮、コートの中に竹下さんがいるとホッとする。とても息の長い名選手で、バレーボール以外の仕事でも頼んでみたくなるような存在である。
名セッター、平成23年秋のアジア選手権では「ベストセッター」に選ばれた。身長159センチと他国チームのセッターに比べ、はるかに小柄なのに、である。
バレーボールの試合では、セッターより、攻撃手(アタッカー)の方が注目されがちであるが、むしろセッターのトス、玉さばきによって得点が決まることが多い。ベテランの竹下さんの球さばきで、試合が決まってしまうのだ。目立たないが、誰にトスをあげ、どんなアタックをさせるか、早いトスか遅いトスか、長いトスか短いトスか等、竹下さんのようなベテランでないと、とっさの判断は難しく、得点、したがって試合を左右してしまいかねないことが、とても多いのだ。
若い頃、九人制の女子バレーボールの指導をしていたことがある。どのチームをつくる時も、FC(フォワードセンター(前衛中央))とHC(ハーフセンター(中衛中央))を、最初に鍛えた。玉さばきの中心、ボールが集中するところである。日曜日には女子選手を全員連れて、男子六大学バレーボールをよく見学した。私の隣に、FCとHCを座らせ、逐一男子選手のFCとHCの球さばきを教えた。ボールを誰にあげるかばかりではなく、緩急自在の玉さばきに近づけようと懸命になった。でも、この球さばきは一朝一夕にできるものではない。相手と遊んでいるのではなく、試合をしているのだからである。たくさん経験を積まないと思うようにはなかなかできない。竹下さんも思うようなところにようやくボールが行くようになったのではなかろうか。ご苦労様、11月のW杯、ぜひともロンドン五輪の出場権を。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
名セッター、平成23年秋のアジア選手権では「ベストセッター」に選ばれた。身長159センチと他国チームのセッターに比べ、はるかに小柄なのに、である。
バレーボールの試合では、セッターより、攻撃手(アタッカー)の方が注目されがちであるが、むしろセッターのトス、玉さばきによって得点が決まることが多い。ベテランの竹下さんの球さばきで、試合が決まってしまうのだ。目立たないが、誰にトスをあげ、どんなアタックをさせるか、早いトスか遅いトスか、長いトスか短いトスか等、竹下さんのようなベテランでないと、とっさの判断は難しく、得点、したがって試合を左右してしまいかねないことが、とても多いのだ。
若い頃、九人制の女子バレーボールの指導をしていたことがある。どのチームをつくる時も、FC(フォワードセンター(前衛中央))とHC(ハーフセンター(中衛中央))を、最初に鍛えた。玉さばきの中心、ボールが集中するところである。日曜日には女子選手を全員連れて、男子六大学バレーボールをよく見学した。私の隣に、FCとHCを座らせ、逐一男子選手のFCとHCの球さばきを教えた。ボールを誰にあげるかばかりではなく、緩急自在の玉さばきに近づけようと懸命になった。でも、この球さばきは一朝一夕にできるものではない。相手と遊んでいるのではなく、試合をしているのだからである。たくさん経験を積まないと思うようにはなかなかできない。竹下さんも思うようなところにようやくボールが行くようになったのではなかろうか。ご苦労様、11月のW杯、ぜひともロンドン五輪の出場権を。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
10月6日・7日1泊で82歳~84歳の級友が上毛高原でクラス会をおこなった。40人以上いた級友の中で、急な物故者も出て、5人しか集まらなかった。病とたたかっている人の話を聞くと、前立腺ガンの人が圧倒的に多く驚いた。少数精鋭で有意義な会とはいうが、7・8人の参加者はほしかった。級友は首都圏に一番多く、次いで母校のある新潟在住の人が、これに次いで多いが、平成23年今回で「全員対象のクラス会の終わり」を宣言することになった。とても淋しいが致し方あるまい。5人が肩をたたきながら「クラス会の終了」が告げられた。
これによりこのクラスの始まりと終わりは、とても淋しいものとなった。
昭和20年(1945)敗戦の年のはじめ、我々は皆後期中等教育の生徒として、工場の勤労動員先で毎日働いていた。私は航空機のドリル作りの柿崎理研の工場内の寮に泊まって生産に携わっていた。その2月高等教育受験、しばらくして合格通知、4月合格校には行かず、合格校生として二本木・日本ソーダ(四エチル鉛作成)に入って入学式、その合宿寮から毎日通勤、でもほとんど働けず、空襲のため防空壕に行くことが多く、そして8月15日工場内で敗戦の玉音放送を聞き、心を真っ白にして実家に帰り、自宅待機させられた。そして、10月1日長岡で合格校の入学式となったのである。
この敗戦は17歳の少年の私には致命的なもので、どうにもならないほどの毎日ではあったが、「この国を何とかしなければ・・・」という青年の心の動きだけは旺盛であった。
昭和20年から27年までは、日本はUSAの占領下に置かれたが、日本人のすべてが「再び日本を立ち直す」という心情に燃えていた。
平成23年10月6日・7日の淋しい、淋しいクラス会の終わりに、65年前の、敗戦のあわただしさと合わせ、大震災日本国の最発展を静かに思い浮かべる終わりのクラス会となってしまった。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
これによりこのクラスの始まりと終わりは、とても淋しいものとなった。
昭和20年(1945)敗戦の年のはじめ、我々は皆後期中等教育の生徒として、工場の勤労動員先で毎日働いていた。私は航空機のドリル作りの柿崎理研の工場内の寮に泊まって生産に携わっていた。その2月高等教育受験、しばらくして合格通知、4月合格校には行かず、合格校生として二本木・日本ソーダ(四エチル鉛作成)に入って入学式、その合宿寮から毎日通勤、でもほとんど働けず、空襲のため防空壕に行くことが多く、そして8月15日工場内で敗戦の玉音放送を聞き、心を真っ白にして実家に帰り、自宅待機させられた。そして、10月1日長岡で合格校の入学式となったのである。
この敗戦は17歳の少年の私には致命的なもので、どうにもならないほどの毎日ではあったが、「この国を何とかしなければ・・・」という青年の心の動きだけは旺盛であった。
昭和20年から27年までは、日本はUSAの占領下に置かれたが、日本人のすべてが「再び日本を立ち直す」という心情に燃えていた。
平成23年10月6日・7日の淋しい、淋しいクラス会の終わりに、65年前の、敗戦のあわただしさと合わせ、大震災日本国の最発展を静かに思い浮かべる終わりのクラス会となってしまった。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
超グローバル時代、各国の経済の変動はきわめて大きい。ギリシャ、スペイン、イタリアなどは経済崩壊の状況を呈している。しかし、イタリアは少しちがう。ドイツを北方のものづくりの国、イタリアを南方のものづくりの国として、二国の技能・技術を分けて考えることが多い。ドイツでは合理的・理論的なものづくりを追い、イタリアでは芸術的な本職としてのものづくりを追う人がとても多い。したがって、イタリアの経済崩壊は国家財政から見れば危険な状況ではあるが、イタリアには国際的に通用する専門職人が多く、国家財政の安定はゆるがないであろうといわれている。例えば、イタリアの南方のものづくりでは、日本の建築に棟梁がいるように、どんなものづくりにも棟梁担当の本職がいる。洋服加工にも棟梁相当の人がいるのである。
さて、一国の経済の盛衰は「ものづくり」に大きく左右される。株取引やネットワーク依存が多すぎ、人間が直接働かなくなると、経済は滅びる方向に限りなく近づく。私は経済の盛んさの指標を、農業・工業・家事の状況において考えることにしている。これらの仕事は、直接自然や人間、すなわち生命にかかわる仕事であるからである。農水省は今年3月、総合的な農林水産業(6次産業化―生産(1次)、加工(2次)、流通(3次)の一体化)の施行にふみ切った。誠に人間の生きる基礎を磐石にする有効な施策であると思う。農林水産業は天災に左右される難儀な仕事にはちがいないが、人生もまた天災に影響を受けながら歩いていくもの、6次産業化の発展を心から祈るものである。
東日本大震災のみなさんも、元に戻るばかりではなく、この際他地域と連携され、第一次産業の6次産業化を目指し、良質な製品誕生と生活のさらなる安定を願ってやまない。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
さて、一国の経済の盛衰は「ものづくり」に大きく左右される。株取引やネットワーク依存が多すぎ、人間が直接働かなくなると、経済は滅びる方向に限りなく近づく。私は経済の盛んさの指標を、農業・工業・家事の状況において考えることにしている。これらの仕事は、直接自然や人間、すなわち生命にかかわる仕事であるからである。農水省は今年3月、総合的な農林水産業(6次産業化―生産(1次)、加工(2次)、流通(3次)の一体化)の施行にふみ切った。誠に人間の生きる基礎を磐石にする有効な施策であると思う。農林水産業は天災に左右される難儀な仕事にはちがいないが、人生もまた天災に影響を受けながら歩いていくもの、6次産業化の発展を心から祈るものである。
東日本大震災のみなさんも、元に戻るばかりではなく、この際他地域と連携され、第一次産業の6次産業化を目指し、良質な製品誕生と生活のさらなる安定を願ってやまない。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
激動の世界、日本教育の改革すべき事柄を問われれば、私は次の三つの課題をあげることになろう。第一が受験体制、第二が子どもたちの発達、第三が精神の育成である。
第一の受験体制は、幼い時からはじまる知識中心の獲得競争の激化、生命保険的な社会的維持機能保持に近い学歴競争の過剰性、第二の子どもたちの発達は、遊びや伸び伸び生活の欠如からの目の輝きのなさ、僻地への疎開を希望したいような子どもたちの現状、第三の精神の育成は、子どもたちの日常さえ経済、金銭に左右されがちで、人間としてのきれいな生き方、周りの人々との共生にまで心が行かず、義に生きる魂が忘却される傾向にあることである。
人間は今便利な生活から遅れないように必死に生き、その結果、ものづくり不足・経済破綻を引き起こし、教師でさえ知識や技能を売る傾向が著しく、教育に心や魂が抜けてきているのが現状であるといえよう。
ここで思い浮かべたいのは、武士が守ろうとした武士道の義である。義は品格であり、人間の守るべき路である。戊辰戦争終結時の会津白虎隊の自決、赤穂浅野藩四十七士の仇討ちなどは、人間の魂が呼び戻された義挙であったといえよう。
先の教育上の三つの課題に答えてみよう。第一の受験は、学校の授業、家庭の予習・復習に友情を加えて克復できないか。よく学べ、よく遊べを実践しよう。
第二の発達は、ファミリーの見直し、学校の友情・協働、地域の仲間づくりを考え、人間関係の緊密化を図る。
第三の精神育成は、守るべき心を、互いに注意しあって、小さなことでも守るようにする。ファイン・プレーは、ほめ合おう。
ちょっとした教師の指導により、純情な少年少女の心は、義に向かって動き出すにちがいない。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
第一の受験体制は、幼い時からはじまる知識中心の獲得競争の激化、生命保険的な社会的維持機能保持に近い学歴競争の過剰性、第二の子どもたちの発達は、遊びや伸び伸び生活の欠如からの目の輝きのなさ、僻地への疎開を希望したいような子どもたちの現状、第三の精神の育成は、子どもたちの日常さえ経済、金銭に左右されがちで、人間としてのきれいな生き方、周りの人々との共生にまで心が行かず、義に生きる魂が忘却される傾向にあることである。
人間は今便利な生活から遅れないように必死に生き、その結果、ものづくり不足・経済破綻を引き起こし、教師でさえ知識や技能を売る傾向が著しく、教育に心や魂が抜けてきているのが現状であるといえよう。
ここで思い浮かべたいのは、武士が守ろうとした武士道の義である。義は品格であり、人間の守るべき路である。戊辰戦争終結時の会津白虎隊の自決、赤穂浅野藩四十七士の仇討ちなどは、人間の魂が呼び戻された義挙であったといえよう。
先の教育上の三つの課題に答えてみよう。第一の受験は、学校の授業、家庭の予習・復習に友情を加えて克復できないか。よく学べ、よく遊べを実践しよう。
第二の発達は、ファミリーの見直し、学校の友情・協働、地域の仲間づくりを考え、人間関係の緊密化を図る。
第三の精神育成は、守るべき心を、互いに注意しあって、小さなことでも守るようにする。ファイン・プレーは、ほめ合おう。
ちょっとした教師の指導により、純情な少年少女の心は、義に向かって動き出すにちがいない。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
私は北海道が特別大好きで、毎年道を訪れている。何回繰り返し訪れても新鮮な気分になる。大好きな理由を自問自答すれば、身近には、空気、食物、景色、そしてその自然に育まれた人々の人柄があり、道での自然と人間に抱かれた心地がとても良いのである。この地に来て、ロンドン、ニューヨーク、そしてパリ、フランクフルト、北京にも想いをはせ、その間げきに石狩川、札幌農学校(クラーク、内村鑑三、新渡戸稲造)と楽しみがひろがってつきない。そして、道全体を、道州制日本の中心に据えて、日本は発展すべきであると思う。
ここでは、教育特区というか、教育における道州制の導入について考えてみよう。日本は西欧文化導入を急ぎ、一国一文部行政を中心に、これまで教育行政を推進してきたことは、国際的にも大成功を収めたといえよう。
しかし、21世紀日本は先進国の仲間入りを果たし、南北に長い国土の日本、超グローバル時代、ネットワーク社会においては、もっと「国民に開いた教育」を展開しなければならないと思う。ドイツもアメリカも、教育は州に任されている。個々の子どもの成長、親各自の子どもの成長への希望をいかす教育は、、一国ではなく各県(できれば新しい道州)に委ね、きめ細やかな教育を実現したい。そのため北海道では、そのモデル地区(教育特区)をつくりだしてほしい。豊かな自然の中で子どもたちは伸び伸び育ち、心は札幌農学校の「少年よ、大志を抱け」の日本の魂に行くという、理想の教育に近づけよう。
ある県では、教育委員会をなくし、首長に教育権限をという主張もあるが、教育は可能な限り行政に近づけず、中性を保持し、地域の人々の心情を生かすようにして、力強く推進したい。もちろん、その教育の中核には、子どもたちの目の輝き、言葉・言動の躍動、深い思考があることはいうまでもない。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
ここでは、教育特区というか、教育における道州制の導入について考えてみよう。日本は西欧文化導入を急ぎ、一国一文部行政を中心に、これまで教育行政を推進してきたことは、国際的にも大成功を収めたといえよう。
しかし、21世紀日本は先進国の仲間入りを果たし、南北に長い国土の日本、超グローバル時代、ネットワーク社会においては、もっと「国民に開いた教育」を展開しなければならないと思う。ドイツもアメリカも、教育は州に任されている。個々の子どもの成長、親各自の子どもの成長への希望をいかす教育は、、一国ではなく各県(できれば新しい道州)に委ね、きめ細やかな教育を実現したい。そのため北海道では、そのモデル地区(教育特区)をつくりだしてほしい。豊かな自然の中で子どもたちは伸び伸び育ち、心は札幌農学校の「少年よ、大志を抱け」の日本の魂に行くという、理想の教育に近づけよう。
ある県では、教育委員会をなくし、首長に教育権限をという主張もあるが、教育は可能な限り行政に近づけず、中性を保持し、地域の人々の心情を生かすようにして、力強く推進したい。もちろん、その教育の中核には、子どもたちの目の輝き、言葉・言動の躍動、深い思考があることはいうまでもない。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
新渡戸稲造さんは「太平洋の懸橋」を目指されましたが、花巻新渡戸記念館では、平成十九年度企画展を「もう一人の太平洋の橋」とし、新渡戸稲造氏の妻、メリーさんの生涯を展示した。夫人Mrs. Mary Patterson Elkintonは、アメリカのフィラデルフィア生まれで、平成23年で154年になる。
稲造さん亡き後、メリーさんの晩年は、夫の日記をもとに「幼き日の思い出」の出版に全精力を傾ける毎日であったという。人種の違う夫への愛情はとても深く、メリーさんを日記のまとめにかり立てたのでしょうが、さらに異人稲造さんへの知的好奇心はかなり深かったのではないかと想像されます。
お二人の間に、こんなやりとりがあったと聞いています。メリー「アメリカではキリスト教、日曜学校で宗教教育・道徳教育を行い、人間の形成を図っていますが、日本ではどうですか。」稲造「学校では宗教教育は行っていません。」メリーさん、びっくり。「日本の子どもたちは、どのようにして大人になっていくのだろう。」その時から夫の講義は開始された。日本人を妻に知らしめる、日本の道徳教育、武士道、合わせて家庭における子どもたちへの躾について、稲造さんは、時を見つけ懸命に説明を続けたそうである。その説明が「武士道」として出版され、十一ヶ国語に翻訳され有名になった。メリーさん出版の本の「まえがき」に、こんなことが記してある。
「日本では妻は決して夫を誉めそやさぬことになっています。しかし、私はもっと率直に発言する国民のなかで生まれましたので、彼の資質への私の賛嘆と敬意が常に増大していったことを、はばかることなく申します。」
これを読んで人間の研究に引きつけられ、稲造さんを愛してやまなかったメリーさんの生涯を、こっそりと映像におさめ、日米夫妻の一挙手一投足をしっかりとカメラに収めてみたいという衝動にかられてしまった。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
稲造さん亡き後、メリーさんの晩年は、夫の日記をもとに「幼き日の思い出」の出版に全精力を傾ける毎日であったという。人種の違う夫への愛情はとても深く、メリーさんを日記のまとめにかり立てたのでしょうが、さらに異人稲造さんへの知的好奇心はかなり深かったのではないかと想像されます。
お二人の間に、こんなやりとりがあったと聞いています。メリー「アメリカではキリスト教、日曜学校で宗教教育・道徳教育を行い、人間の形成を図っていますが、日本ではどうですか。」稲造「学校では宗教教育は行っていません。」メリーさん、びっくり。「日本の子どもたちは、どのようにして大人になっていくのだろう。」その時から夫の講義は開始された。日本人を妻に知らしめる、日本の道徳教育、武士道、合わせて家庭における子どもたちへの躾について、稲造さんは、時を見つけ懸命に説明を続けたそうである。その説明が「武士道」として出版され、十一ヶ国語に翻訳され有名になった。メリーさん出版の本の「まえがき」に、こんなことが記してある。
「日本では妻は決して夫を誉めそやさぬことになっています。しかし、私はもっと率直に発言する国民のなかで生まれましたので、彼の資質への私の賛嘆と敬意が常に増大していったことを、はばかることなく申します。」
これを読んで人間の研究に引きつけられ、稲造さんを愛してやまなかったメリーさんの生涯を、こっそりと映像におさめ、日米夫妻の一挙手一投足をしっかりとカメラに収めてみたいという衝動にかられてしまった。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
昭和3年(1928年)日本に生まれ。歴史上のことを含め、およそ次のような災害に出会ったことになる。
1徳川(江戸)260年 戦国時代
2開国(明治維新) 幕末
3関東大震災 大正デモクラシー
4太平洋戦争 戦中・敗戦
5東日本大震災 経済的不況
日本はこの1~5、そのつど、国力を強め、今日に至ったように思う。調べれば多くあると思うが、最も国力を強めたものの一つとして、戊辰戦争における会津藩の白虎隊を挙げることができよう。会津松平藩のために殉じた少年たち(15歳~17歳)の義挙は、赤穂四十七義士の心に匹敵し、その少年の魂は、明治維新・開国の志を示すものとして、もっと称賛さるべきものといってよい。先の5つの大災害(国難)は、大人だけによる解決が論じられることが多いが、青少年の動きをみれば、名はないが国難の解決の中心は、今様の高校生レベルで成し遂げられられたものが多いのではないかと思う。災害阻止と青年心理については、もっともっと研究すべきである。
太平洋戦争末期(昭和19年・20年)、私は十七歳、日本海を臨む柿崎理研内の合宿所、懸命にドリル生産に打ち込んでいた。日本が勝つことのみを想う生産、日本人の魂を注入する生産であった。
一国の災害に向かう心は、恐ろしいほど強いものである。その心が災害を通過すると、いっそう強固な、誰にも何にでも負けないものになる。これが、その後の国を動かすのである。
岩手・宮城・福島の子どもさんたちは、今は静かであるが、だんだんと微動だもしない心を内に秘めるようになろう。地震・津波の力は偉大であるが、それが子どもたちの心をとても強くしてくれると確信し、日本の前途を明るく待とう。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】
1徳川(江戸)260年 戦国時代
2開国(明治維新) 幕末
3関東大震災 大正デモクラシー
4太平洋戦争 戦中・敗戦
5東日本大震災 経済的不況
日本はこの1~5、そのつど、国力を強め、今日に至ったように思う。調べれば多くあると思うが、最も国力を強めたものの一つとして、戊辰戦争における会津藩の白虎隊を挙げることができよう。会津松平藩のために殉じた少年たち(15歳~17歳)の義挙は、赤穂四十七義士の心に匹敵し、その少年の魂は、明治維新・開国の志を示すものとして、もっと称賛さるべきものといってよい。先の5つの大災害(国難)は、大人だけによる解決が論じられることが多いが、青少年の動きをみれば、名はないが国難の解決の中心は、今様の高校生レベルで成し遂げられられたものが多いのではないかと思う。災害阻止と青年心理については、もっともっと研究すべきである。
太平洋戦争末期(昭和19年・20年)、私は十七歳、日本海を臨む柿崎理研内の合宿所、懸命にドリル生産に打ち込んでいた。日本が勝つことのみを想う生産、日本人の魂を注入する生産であった。
一国の災害に向かう心は、恐ろしいほど強いものである。その心が災害を通過すると、いっそう強固な、誰にも何にでも負けないものになる。これが、その後の国を動かすのである。
岩手・宮城・福島の子どもさんたちは、今は静かであるが、だんだんと微動だもしない心を内に秘めるようになろう。地震・津波の力は偉大であるが、それが子どもたちの心をとても強くしてくれると確信し、日本の前途を明るく待とう。
【拓殖大学名誉教授 小林 一也】